![]()
じきに陽が落ちるので、茶屋の女中が座敷の行灯に灯を入れに来た。
この部屋で主人を待っている男は、黙って火鉢の炭をかき回している。
帽子を傍らに置いて、片膝を立てて座り、背広は着たまま。
立春を過ぎたばかりで、気候はまだ冬とそう変わらない。
茶屋の離れは夕暮れに冷え始めたので、燗をした酒をとって口をつけたのが半時ほど前。
「新しく、おつけしますか?」
「いや結構」
銚子にはまだ酒が入っていた。
だいぶぬるくなったそれをまた口に運び、赤く焼ける炭を眺めて目を細めた。
静かに燃える赤は、人から流れ落ちる赤とはまた違う色合い。
鉄錆のような塩辛い匂いを思い出し、男は深く呼吸する。
最近済ませた仕事の感触をじわじわと手足に思い起こしていると、知らず口の端が上がった。
「…待たせたな、飛田」
近付いてくる足音がよく知ったものだったので、急に開いた襖にも驚かない。
「私が早く来過ぎただけです、御前」
やってきたのは影山という男。
手前に居た飛田の横を通り過ぎ、奥へと腰を下ろす。
ふたりは主人と部下にして、見ようによっては愛人関係でもあった。
ただし、恋情ではなく色欲を交わすだけの。
「上手くやったようだな」
「もちろんです、御前」
火鉢から顔を上げ、飛田は影山に向かって微笑んだ。
「それほど難しい仕事ではありませんでした…それから、お耳に入れたい話もございます」
「ああわかった、まあ一息つかせてくれ」
出された食事と酒を前に、影山がしばらく愚痴をこぼした。
飛田は相槌をうちながら、主の杯に酒を注ぐ。
「だいぶぬるくなってしまったな…もうひとつ取るか」
「わたくしは人肌ほどが好きですよ、このくらいが」
「…お前らしいな」
「徐々に冷えていくのが…終えたばかりの仕事のようで何ともいえません」
影山は呆れて笑うと、じっと小さな水面を眺めた。
「お前はそうして、なんでも人の死に様に結び付けて楽しむのだね」
侮蔑を含んだ声でそう言い放ち、杯を空ける。
それよりももう少しゆっくり飲み干した飛田は、向けられた主の嫌悪を知っていて頷いた。
「だからこそこうして、御前と向き合えております」
飛田天骨。
大勢の無頼者を束ねていて、彼自らも表沙汰にできない仕事を生業としている。
そんな彼の仕事に惚れ込んで懐刀にしているのだから、影山とて同じ穴の狢と言えた。
ただ飛田自身の性質に関してだけは、およそ同調できるものではない。
「お前は優秀だがね、そうして血をやたらに好むのは理解し兼ねる」
影山はおそらく向かいで微笑んでいるだろう飛田を見ずに、箸を進めた。
彼が仕事をしているのを、一度だけ目撃した事がある。
松の木に押し付けられた男は動かず、背中から胸までを貫いた傷口に顔を寄せていたのが飛田だった。
引き抜いた刃をもうっとり眺めて、血の匂いをいっぱいに吸い込んで笑う顔を今でも覚えている。
それとは異なると分かってはいるが、彼の笑う顔は少しでも後ろ暗い気持ちの時には避けたくなるのだ。
そしてそれは影山にとっても無意識の事で、彼はただ飛田の笑みを不気味に感じているとだけ認識していた。
「……雨か」
庭木や池に落ちる水音が鮮明になったので、思わず呟く。
しかし二人とも今夜のうちにこの茶屋を出るつもりはなく、明日には上がっていればいいという希望だけが頭の隅に浮かぶ。
「…布団をあたためておけ」
飛田は幾人かの身分ある者の下で働いてきたが大抵の場合、主たちは彼が仕事を重ねる毎に何らかの重圧を受けて疲弊していく。
今までで一番様子を変えずにいるのが影山で、それ故か付き合いも長くなっていた。
「では、失礼します」
帽子を拾い上げて立ち上がり、隣の部屋へ向かう。
影山は頷くと、銚子を傾けて杯を満たした。
飛田は静かに歩いていき、続き間で着物を脱ぐ。
襦袢だけの姿で布団へ入ると、準備されていた油を手にとって臀部の奥へと指を滑らせた。
「……っ」
うつ伏せになって後ろ手に自分の内側を広げる。
外の雨音に耳を澄ませながら、しばらくはその作業に没頭した。
飛田が男色の相手をするのは影山だけではなかったが、本来の仕事の依頼人との性交渉というのは他にあまりなかった。
人の命を奪う者と深く関わろうとしないのは当然だが、それ以上に彼らの多くは直接でないにしろ『その仕事』に関わった事で心に闇を抱える。
他ならぬ自分の口から出た依頼で流れた血を怖れ、その仕事をして尚穏やかに笑う飛田を怖れるようになるのだ。
もちろん、飛田自身が彼らに危害を加えたことなど一度たりともないのだが。
「そのままこちらを見ろ、飛田」
声を掛けられ、顔を上げた。
内側を嬲る指をゆっくり動かしながら、飛田は眉を寄せて影山を見る。
影山はやはり服を脱いで傍へ来ると、飛田の顎を取って行灯の明かりの方へと向かせた。
「…お前はこういうときになると、ちゃんと人の子らしい顔をするな」
わずかな苦痛、明らかな羞恥。
「それほど、普段とは違いますか?今の私は」
「ああ違うよ、別人とまでは言わないが…そうやって情夫の顔もしてみせる忠実さが、憎たらしくもある」
飛田は身体を起こして、主人を布団の中へと招き入れる。
飛田にとって影山は仕事相手のひとりで、しかし彼は他とは全く異なる強さと攻撃性を持っていた。
まず自分の事を遠ざけようとしない。
何人の屍の上に今の彼の地位があるか、数えようと思えばできるがそれは少ない人数ではない。
それでも彼は自分を呼び寄せて、直接依頼を口にする。
「今夜は、いやに冷えるな」
「わたしで宜しければ、あたためて差し上げますよ」
飛田は微笑んで、影山の手首に口付けた。
本来の仕事だけでなく、こうして傍に置いて自分を支配しようとする影山に興味を惹かれていて。
それは刃物で斬る以上のものでは決してないが、よく似た快楽があると思うようになっていた。
「お前がいうと、あたたかみも薄いな」
「御前のお望みで参りましたのに、意地の悪い事をおっしゃる」
彼も間違いなく、自分の笑う顔を怖れているひとりなのに。
引き寄せて、怖れを隠して、蹂躙しようとする。
それが愉快で、不思議で、他では得難いものだった。
揺れるふたりの影が重なって。
「…っぁ…あ……御前…ッ」
戯れに、腕を手拭いで縛る。
飛田は不自由な両手を頭の上にやって、天井を見ていた。
両脚を広げ、影山を奥へと受け入れている。
「…飛田…っお前の身体も、年を経て淫猥になったな」
初めて抱いたときは、ほとんど動けずに苦痛で顔を歪めていた。
行為を重ねるうちに、彼は恍惚をみつけるようになっていった。
今では、血の滴る刃物に顔を寄せているときとよく似た目。
「ん…ぅ…そう、ですか…っ」
飛田は額に汗を浮かせた影山へと、あまり定まらない風な視線を移した。
わずかに微笑んだまま。
その顔に影山は恐怖を覚えて、しかしそれを掻き消すように大きく動く。
「…ああそうだっ…それにお前がそうやって、淫らな顔をするのは…とても愉快だよ」
「…ん、ん…っぁ……ぁあっ」
不自由な両手を、強く握り込んで。
影山が達するまで、飛田は喘ぎを抑えずに身悶えた。
ふたりの影が離れてほどなく。
ゆっくり目を開けると、影山はすぐ隣で紙巻煙草をくゆらせていた。
その横顔と紫煙を眺めて、縛られたままの両手を布団の中へと引き入れる。
「……あまり、お好きではないようで」
「ああ、苦手だね…香りはともかくこれを吸い込むのは…あまり好かないよ」
付き合いで人から貰ったものなので、いずれ感想のひとつも述べなくてはならない。
「刻みの葉を一服くらいがちょうどいいな…欲しければやるぞ、一箱ある」
「いいえ、わたくしは…あまり強い匂いをさせて歩く訳にはまいりません」
「はっはっは、そうだな…殊更気配をさせるようなものだな」
雨が止み、母屋の方から時折三味線の音がする。
飛田は影山の喫煙が終わるのを、目を閉じて待った。
「…お前からの話というのは、なんだね?」
影山は飛田の白い肩と束ねられた指先を見下ろす。
手元の火を揉み消して、乱れた前髪を後ろへ撫で付けた。
「うちに面白いのが転がり込んできました」
飛田は目を閉じたまま、言葉を続ける。
「清原久雄とかいう若造です、そいつは自分から清原永之輔の息子だと」
「清原の?…何故それがお前のところに来るんだ」
「正妻の子ではないようです…清原の方は今、その若造を探しております」
手首の手拭いに触れられ、飛田は目を開けた。
「父親への恨み言を、はばかることなく口にしておりました」
「…反抗心から、お前のような男のところへか」
若いなと呟き、影山は笑った。
拘束していた飛田の腕を解放し、手拭いを放り出す。
「私が面倒を見ても宜しいでしょうか?」
飛田が問うと、影山は彼の手首についた布の擦れ痕を撫でながら頷く。
「いいようにしろ、いずれ何か…役立つ時もあるかもしれんし、ないかもしれん」
どちらでも構わない、と影山は身体を起こして用意されていた浴衣を手繰り寄せる。
飛田は影山がそれを着るのを手伝ってから、襦袢を着込んで布団へと戻った。
「……雨は、止んだか」
影山の呟きに、飛田は微笑みだけを返す。
それを横目に見て、影山は嘲るように笑った。
まっすぐな微笑みに感じたのが、恐怖であるとは認めない。
主は逃れるように、部屋の灯を落とした。
暗殺者は暗い部屋で、小さく笑って目を閉じた。
《終》
Novel TOPへ戻る

HOME